Oct 23, 2012

Ch31-7

The Savior's Vision

救世主(救い主)のヴィジョン


学習とは{あなたが、そして世界が}変化することなのです。

救済は「あなたの思考にとって不慣れ過ぎて助けに成らない方法」を使おうとはしません。

救済は「あなたには認識出来ない変化」を起こそうともしません。

知覚が続いている限り、概念が必要とされるのです。{知覚によってあなたが世界を認識することが止まるまで、概念も必要とされ続けるのです。}

そして概念を変えることが救済の役割なのです。

何故なら概念は、「反対物を何も持たず変化し得ない真理」を使うことは出来ず、コントラスト(対比)を使用せざる得ないものだから。

この世界の概念群の中では「悪」が罪悪で「善」が無垢なのです。

そしてここ(この世界の概念群内)に居る人達は皆「自分が善として数えている(認識している)自己概念」を示して、自分自身を悪から免除しようとするのです。

そして(この世界の概念群内に居る)彼は、他者の善は信じず{善に対する他者の概念は受け入れず}、「悪が後ろに控えているに違いない」と信じるのです。


この概念は裏切りを強調しており、だから信頼は不可能に成ります。

あなたの中に「悪」を知覚している限り、それ(上記に示された概念)が変化することも不可能なのです。

攻撃に価値を見続けている限り{攻撃が必要だと考えている限り}、あなたは自分の「邪悪」な思考を認識することが出来ません。

あなたは時にはそれら(あなたの中の邪悪な思考達)を知覚しますが、それらを無意味(無力)と見ることは在りません。

だからそれら(あなたの邪悪な思考達)は(内容が依然として隠されている)怖れの形で現れ、あなたの惨めな自己概念を揺るがし、さらなる「犯罪」でそれ(あなたの自己概念)を黒くするのです。
{この状態では}あなたはあなた自身に関して混乱し過ぎているので、あなたがあなた自身にあなたの無垢を与えることは出来無いのです。
 
 
しかし完全に赦しに値する者として一人の兄弟があなたの視界の中に現れたなら、あなたの自己概念が完全に変わるのです。
彼(赦しに値するあなたの兄弟)と共にあなたの「邪悪」な思考が赦されたのです。何故なら、{一人の兄弟を赦しに値する者としていあなたが見ているその時}あなたはそれら全てに(あなたの邪悪な全思考に)全くあなたを影響させなかったのだから。
その時あなたはもう『自分が「彼の中の邪悪と罪悪のサイン/象徴」に成ること』を選んではいないのです。

彼の中の「善」にあなたの信頼を与えたなら、その時あなたは、あなたの中の「善」にあなたの信頼を与えているのです。
概念上は、あなたはこのようにして彼(あなたの兄弟)を体以上/体以外のものとして見るのです。 何故なら善は「体の見かけ」とは違うのだから。

体の行動はあなたのより「卑俗」な部分から来ているように知覚され、だから彼(あなたの兄弟)の行動も同様に彼の卑俗な部分から来ていると知覚されるのです。

彼の中の善に焦点を当てることにより、あなたの視界の中で体は不動{絶対}ではなくなって行き、{体は}善の周りを縁取る影として見え始めるのです。


『「あなたの目だけがあなたに見させている視界」を越えた世界』にあなたが届いた時、これ(上記に述べられていること)があなた自身の概念に成るのです。

何故なら、その時あなたは「神があなたに与えた援助{聖霊}」を無視して物事を解釈することを止めているのだから。 そして彼{聖霊}の視界内にもう一つの世界があるのだから。

{現在}あなたは、この世界{物理的世界}に住んでいると同じだけ、もう一つの世界{聖霊の視界内の世界}の中にも住んでいるのです。 何故なら、これら両方の世界はあなた自身の概念なのだから。

そしてこれら{「聖霊が見ている世界」と「現在あなたが見ている世界」}を取り替える(入れ替える)ことが出来るのですが、これら両方を同時に保つ(同時に成立させる)ことは出来ないのです。
 
 
あなた自身に対するこの概念{聖霊が見ている世界}をあなたは愛するのです。
{聖霊があなたに見せる}この概念はあなただけの為に作られてはいないで、{この世界と聖霊が見ているもう一つの世界の}このコントラスト(対比)はあなたが考えているよりも大きいのです。

『「あなた自身としては知覚されていない者へのギフト」として生み出されているこれ{完全に赦しに値する他者への認識/認証}』が「あなた」へ与えられているのです。

彼(あなたの兄弟)に対して捧げられているあなたの赦しが、今あなた達両者(あなたとあなたの兄弟)の為に受け入れられたのです。


あなたと共に歩いている彼{あなたの兄弟の聖霊}を信頼しなさい、怖れに満ちたあなたの自己概念が変化するように。

そして彼の中の善を見つめなさい、彼に対するあなたの視界が「あなたの邪悪な思考」で曇らなく成り、「あなたの邪悪な思考」にあなたが怯えなく成るように。

このシフトの為に必要なのは「このハッピーな変化が起こることをあなたが許可出来るように成ること」だけです。 これ以上のことは求められていません。

「あなたが保ってきた自己概念が何を今まであなたにもたらして来たか」思い出しなさい。そしてあなたに捧げられているこの喜ばしいコントラスト(対比/違い)を歓迎しなさい。親切な赦しのギフトを得られるようにあなたの手を差し出しなさい。

あなたはこの赦しのギフトを「あなたと同等に赦しを必要としている者」に対して捧げたのです{だからあなたはこの赦しのギフトを得ることが出来るのです}。

そして「あなたの無慈悲な自己概念」を「神の平和を持って来る者」へと変化させなさい。
 
 
現在まだあなたが持っている自己概念は、ここでのあなたの役割が永遠に達成されず完了されないことを確約しています。 だからこれはあなたを深く苦い陰鬱と不毛の感覚に突き落とすのです。
しかし変化の希望を超えてこれ(あなたの自己概念)を保持しようとあなたが選択していない限り、そしてこれを不変に保ちあなたのマインド内に隠そうとしていない限り、これ(あなたの自己概念)が固定されている必要はないのです。

「これ(あなたの自己概念)が必要としている変化」を理解している彼(聖霊)にこれを渡しなさい。あなた自身に平和をもたらす為にあなたに与えられている役割(あなた自身が平和を得る為に平和を捧げられるように成ること)の為に必要な変化を彼(聖霊)は理解しています。
アルタナティブ{あなたがまだ気付いていないあなた自身}はあなたのマインド内にあり、{聖霊は}それを使うことが出来るのです。

そしてあなたはあなた自身を今までとは違う方法で見ることが出来るのです。
あなた自身のことを、救済の敵としてではなく、「世界の救済の為に必要とされているもの」として見たいとは思いませんか?


自己概念は盾のように立っており、(真理を遮っている静かなバリケードのように)真理をあなたの視界から隠しているのです。

{現在}あなたが見ている全てのものはイメージなのです。 何故なら(あなたの視界をボンヤリさせあなたのヴィジョンを歪ませる)バリアーを通してあなたは全てを見ているのだから。だからあなたは何もクリアに発見することが出来ていないのです。

あなたが見ている全てのものから光が遠ざけられているのです。 

最善の場合(出来る限りクリアに見えている時でも)、あなたは遥か彼方に真理の影をチラッと見ているだけなのです。

そして最悪の場合、あなたは暗闇だけを見ており、「怖れから生まれ出ている罪悪の思考や概念から来ている怖ろしい想像物」を知覚しているのです。そして{その時}あなたが見ているのは地獄なのです。何故なら、怖れが地獄なのだから。

「{聖霊から}あなたに与えられている全てのもの」は解放の為に使うことが出来るのです。{あなたが受け取る}全てのヴィジョンや内的ガイダンスは、あなたが愛している人々と共にあなたを地獄から導き出そうとするのです。 そしてこれらの人々(あなたが愛している人々)と共に宇宙も救われるのです。


宇宙の中のあなたの役目を見なさい。真の創造の全ての部分は「(地獄の惨めさからの救済を全て任されている)愛と生命の主」を持っているのです。

そしてそれぞれの人達は「その人の為の特別な救世主に成ることが許されている彼{聖霊}」を持っているのです。

自分自身を見ているように一人の兄弟を見た時、そして兄弟の中に自分自身の鏡像を見た時、初めて人はこれ(自分の役目)を学ぶのです。

このようにして彼自身の概念が(あなたの自己概念が)取り払われるのです。何故なら{その時}『「彼の視界」と「彼が見ているもの」の間に存在し「彼の見ているもの」をジャッジ(断罪/判断)しているもの』は何も無いのだから。


こうして、この一つのヴィジョンの中で彼はキリストの顔を見るのです。そして「彼がこの一人(この一人のキリスト)を見ているように、彼が全ての人達を見ていること」を理解するのです。

何故なら、以前までは暗闇が在った所に光が届いており、ヴェールが今彼の視界から取り払われたのだから。


キリストの顔の上に掛けられたヴェールは「神への怖れ、救済に対する怖れ、そして罪悪と死への執着」であって、それら全ては同一のエラーに与えられている様々な名前なのです。

『あなたとあなたの兄弟の間にスペース(隙間)があって、あなた自身の幻想があなたを彼/兄弟から(そして彼をあなたから)隔てているという状態』がこのエラーなのです。

あなたは、この自分の幻想に対して断罪(判断)の剣という武器を与えており、この武器を使って「兄弟が愛に満たされていないスペース」を確保しようとしてあなたは戦っているのです。
しかしあなたがこの剣{断罪/判断}を握っている限り、『「彼自身のもう一つの鏡」を掲げている彼の視界』からあなたは分離せざる得ないので、あなたは体をあなた自身として知覚せざる得ないのです。


誘惑とは「地獄と惨めさの中に留まろうとする願い」でしかないのです。

この願いから「惨めに成り得る(そして地獄と苦しみの中に留まろうとする)あなた自身のイメージ以外のもの」を引き出すことが可能でしょうか?

「自分の兄弟をこのように見ないことを学んだ者」が自分自身を救済しており、だから{「自分の兄弟をこのように見ないことを学んだ}彼は他の人達の救済者なのです。

全ての人々に対して神は全てを任せています。何故なら、部分的救済者は「部分的に救済されている者」にしか成り得ないから。

「(あなたに救済される為に)あなた達各人に与えられている聖なる者達」とは、あなたが出会う(あるいはあなたが見ている)全ての人達なのですが、あなたは彼等が本当は誰か知っていないのです。

あなたが少しだけ見て忘れてしまっている全ての人達も、そして長いこと会っていない人達も、これから出会う人達も、忘れてしまっている人達も、まだ生まれていない人達も{彼等に救済を与えることがあなたの役割なのです}。

「彼(神の子)が考え付いた全ての概念」から彼を救う為に、神はあなたに彼(神の子)を与えたのです。{つまりあなたが「神の子(兄弟姉妹/同胞)をあなた達の概念から救うこと」が神の意志なのです。}
 
 
でもあなたが地獄に留まろうとしている限り、どうしてあなたが神の子の救済者で在り得るでしょうか?
あなたが彼をあなた自身から隔てて(分離して)見ている限り、どうしてあなたに彼の神聖が解るというのでしょうか?

何故なら、神聖は「(自分の中の無垢を見ており、それ故に全ての場所で神聖を見ることを期待している)聖なる目」を通して見られるものなのだから。
だから「聖なる目が見ている全ての者」の中から神聖が引き出され(神聖なる目が神聖を全ての者の中から引き出すのです)、「神聖な目によって見られている者」は神聖なる目が期待しているように振舞えるように成るのです。


これ(下記)が救済者(救世主)のヴィジョンなのです: 

彼(救済者)は自分が見ている全ての中に自分の無垢を見ており、全ての場所に自分自身の救済を見る。

彼は「自分の静かに開かれた目」と「自分が見ているもの」の間に自分自身の概念を全く挟まない。

彼は「自分が見ているもの」に対して光を与えるので、彼は「自分が見ているもののリアルな姿」を見ることが出来る。



誘惑がどのような形を取っていたにしろ、それは常に「あなた自身以外の自己に成ろうとする願い」を反映しているのです。

そしてこの願いから概念が引き出されており、「あなたはあなたが成ろうと願っているものである(you ARE the thing you wish to be」と教えようとするのです。

「この概念を生んだ願い(あなた自身ではない自己に成ろうとする願い)」がもう大切にされなくなるまで、それ(「あなたはあなたが成ろうと願っているものである」という考え)があなたの概念で在り続けるのです。
あなたがこれ(あなたのこの自己概念)を大切にしている限り、あなたは『「あなたから発生している願い」を持っている自己イメージ』の形を通してあなたの兄弟を見るのです。
何故なら、ヴィジョンは創造の力を持っておらず、ヴィジョンに出来ることは願いを示す(願いを象徴する)ことだけなのだから。

しかし愛を持って何かを見ることも、憎しみと共に何かを見ることも、ヴィジョンには出来るのです。 
{愛と共に見るか、憎しみと共に見るか}それは次のシンプルな選択だけに依存しています。 

「あなたが見ているもの」とあなたは繋がろうとするか、あるいは「あなたが見ているもの」からあなた自身を引き離し分離しておこうとするか。


救済者(救世主)のヴィジョンは、あなたに対するどのような裁き(判断)からも自由であり、と同時に、あなたの兄弟の在り方(見え方)に対して無垢なのです。

救済者のヴィジョンは誰の中にも全く過去を見ないのです。

だから救済者のヴィジョンは「(古い概念には邪魔されず、現在が示していることだけを見ようと準備している)完全に開かれているマインド」に仕えるのです。

それは知っていないので、それは裁くことが無いのです。{救済者のヴィジョンは罪を知らないので、何かを裁くことも無いのです。}
 
 
オープンなマインドはこのこと(救済者のヴィジョンは罪を知らず裁かないこと)を認識して「私が見ているものの意味は何だろう?」とだけ訊ねるのです。
すると答えが与えられ、キリストの顔の為にドアが開かれるのです。 そして『「(あなたの中のキリストのヴィジョンに対抗して長い間保持されて来た)古いアイディア群や古代の概念のヴェール」を超えて見ようと無垢の中で訊ねている者』の上にキリストの顔が輝くのです。


誘惑に対して注意を怠らないようにして、誘惑とは「あなた自身をあなた以外のものに作ろうとする(狂気で無意味な)願い」に過ぎないと思い出しなさい。

と同時に「あなたが成ろうとしていたもの、自分以外のこのような者に成りたいとあなたが考えていたもの」に関しても考えてみなさい。

これは狂気と痛みと死であり、失敗した夢の黒い絶望であり、死んで怖れの夢を終了させる以外の望みが残されていない裏切りなのです。

これが誘惑なのです。これだけなのです。

この誘惑を選ばないことは、それ程難しいことでしょうか?

誘惑が何であるか考慮し、あなたが選ぶべきリアルなアルタナティブ(選択肢)を見てみなさい。

そこには二つの選択肢しか存在していません。多数の選択肢として表れている状態に騙されるのは止めなさい。
 
そこに在るのは「地獄か天国かの選択」で、その内からどちらか一つだけをあなたは選ぶのです。

 
「あなたに与えられている世界の光り」を世界から隠しておくのは止めなさい。

世界は光りを必要としているのです。 何故なら、世界は確かに暗闇で、救済者/救世主のヴィジョンが遠ざけられているので人々は絶望しており{世界の中に居る}彼等が見ているのは死なのだから。
彼等の救済者は知っておらず、知られておらず、開いていない目で彼等を見て立っているのです。
彼(救済者)が「見ることの出来る目」で彼等(世界の中の人々)を見つめて、彼自身の赦しと共に、彼等に赦しを捧げるまで、彼等は見ることが出来ないのです。


『「私の息子を解放しなさい!」と神から言われているあなた』が{精霊の声を}聞かないよう誘惑されることが可能でしょうか? 「解放するよう神が求めている者」は自分であるとあなたが学んだ時。

これ以外のものをこのコースが教えようとしていることが在り得るでしょうか?

そしてこれ以外にあなたが学ぶべきものが在り得るでしょうか?