Mar 7, 2011

ドンキホーテ


先週オペラ、ドンキホーテを見ました。
中学生の頃小説の日本語訳を読んだ記憶がありますが、オペラの筋書きは私の覚えているものとは少し違う感じです。(たとえばヒローインはもっと朴訥だった気がするのだけれど?)

(誰も彼のことを本当の騎士とは認めていないのだけれど)ドンキホーテは騎士道の理想に燃えたアイディアリスト(理想主義者)です。と同時にキリスト的人物(少なくとも一番無垢な人物)としても描かれています。 しかしこのキリストは他者に対して(従者サンチョパンサにさへ)威厳や奇跡を示すことが全く出来ないのです。

そんな中、唯一の例外は盗賊達との一幕です。
高慢でセクシーで非情なヒローインのネックレスを取り戻すべく盗賊の足跡を辿っていたドンキホーテは、当然盗賊達に叩きのめされてしまいます。
「さて、この痴れ者をどのように料理してくれよう」と盗賊達が笑っている時、ドンキホーテは神に祈るのです。 そして自分が誰か、自分の求めているものが何か語り始めます。 高貴なもの/素晴らしいもの/良きもの/慈悲に満ちたものを求めている自身を顕わにします。 (つまり自分の意志を通すことが出来なくなったドンキホーテがここで自分の意志を手放し聖なる瞬間を迎えたわけです。)
盗賊のボスの心がそれによって動かされ、ドンキホーテにネックレスを返してくれます。
喜び勇んでヒローインに会いに行くドンキホーテ。 彼のことを鼻であしらい続けているヒローインにネックレスを渡します。 そして自分と結婚して欲しいと彼女に告げるのです。

オペラ(ストーリー)の中でドンキホーテは馬鹿にされ続けます。(唯一の例外は従者サンチョパンサ。 一途で純粋なドンキホーテに一目置いており、彼から島を貰い受ける約束も取り付けています。)
他の人達の現実がドンキホーテには全く見えていません。 そのようなものには微塵の関心さへ示さないのです。 彼の心の中を満たしているのは、高貴な騎士道を全うする自分と、それ故に自分に約束されている輝ける未来です。
ここに一つの理想が書かれており、そしてその敗北が書かれています。

ドンキホーテの信心は、盗賊達を動かしましたが、村人やヒローインの心は動かせませんでした。
盗賊達は自分達が罪人だと知っていたのです。今のあり方ではいけないと彼等にはわかっていました。 そして自分達よりも純粋で確信に満ちたドンキホーテにそのあるべき姿を重ねて見たのです。
しかし村人は「自分達が正しい、自分達はドンキホーテよりも正気なのだ」と信じていました。
「自分はリアリティを生きている」と考えている人を神が救うことは出来ないのです。自分のリアリティに対する自信をその人が失うまでは。
それはドンキホーテも村人も同じです。

自分から進んで神に全てを明け渡していない場合(自分というキャラクター/パーソナリティを放棄出来ていない場合)、恩寵(天国の流入)は屈辱/失敗として受け取られてしまいます。
すると人は一生懸命に名誉を挽回しようとしてしまい、結果として恩寵を避け続けてしまいます。
ピュアなハートを持ったドンキホーテでさへ恩寵を完全に受け入れられたのは死の直前のこととして描かれています。 約束していた島の領地(それは夢の中にだけ存在したものでした)を忠実な従者サンチョパンサに与えて、ドンキホーテはこの夢の幕を閉じるのです。

ドンキホーテは無理解な村人やヒローインのせいで不幸だったのでしょうか?
いいえ、彼も自分の思い描いた理想を使って神(リアリティ)から離れていたのです。
彼も自分の頭の中の劇(ストーリー)を村人やヒローインに当て嵌めている狂人だったのです。
神のことをアイディアの源と言うことも可能でしょう。 しかし、自分のアイディアの中に神を閉じ込めることは出来ません。

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夢の中では、ひと一人一人それぞれが自分のことをキャラクター(登場人物)だと信じています。 それ以外の自分はいないと固く信じています。
一人一人が自分のマインドの中に劇をかかえていて、その中で成功したキャラクターに成ろうとしています。
「劇(現実)の中での自分の配役に出来るだけ忠実に振舞うことが神の御心に適うことだ」と考えている人もいます。
しかし、神が我々をキャラクター(登場人物)としては創造していなかったならどうでしょう?
神は我々が参加している劇の劇作家なのでしょうか?
そう考えることも可能でしょう。 しかし神のプラン/意図はいたってシンプルです。
それは神の子がお互いを見て、その素晴らしさ(そこに現れている神の性質)を称え合うことでしょう。 そこには比較/批判/罪の投射がなく、お互いがそれぞれ神の輝きを示しており、それを認め合うこと以外は必要ではないはずです。
誰が正しいとか、誰が優れているとか、誰が誰に影響を与えているとか、そのような誤謬は存在していないはずです。 (何故って、神が優れており、全ての人が神を現しており、全ての人が神に影響されているのだから。)

しかし何人かの神の子が結託して(源/神の輝きを無視した)自分達だけの劇を立ち上げました。
そこに現れている神の子は、もはや神の輝きではなく、物質的身体を使ってお互いと競い争い戦っているのです。(と、そういう信念を作りそれに信心を与えることにしたのです。)
(このようにして孤児に成った神の子達が)この劇から抜け出るにはどうしたらよいでしょう。
そのためには自分達の信念を放棄するのです。 精霊の助けを借りて、自分達が現在担っている役割をもう一度見直すのです。 今一度神を求めて、そこに我が身を差し出すのです。

しかし一旦物質的身体(「自分の身体が在る、それ故に自分が存在している」という信念)に与えた信心を破ることは簡単ではありません。
(我々の)信心は直ぐに体に戻ってしまい。 体から世界を眺めることに耽溺し続けようとするでしょう。
それでも(忙しく働き続けている)マインドの隙間を縫って平和が訪れるのです。 そこで我々は神と一つなのです。そこで不足しているものはなく、マインド(意識)がマインド(意識)そのものとして存在しています。 マインドがそれそのものとして存在しているときが神です。 マインドがそれそのものとして存在しているところが神です。
神から分離してお芝居を続けている子供達は、神と一緒にいるより自分達の芝居の方がよっぽど面白いと主張するでしょう。 神と一緒にいることは退屈に違いないと言うでしょう。 自分達のお芝居こそリアルで楽しく生きがいをもたらすことで、神と一緒にいることは退屈で死にそうだと言うでしょう。
そうやって「どれだけ神が圧倒的か」忘れたフリを続けています。

さて、あなたがオペラ・ドンキホーテの中の端役を担っていたとしましょう。
少し踊って少し歌って、あなたの台詞は一つだけ。
「またあのトンマが帰ってきたか?」 これだけです。
サア、あなたの出番です。 台詞を言って!
しかし言葉が出てきません。(なんてこったい!)
頭の中は真っ白です。 
震える心であなたに言えた言葉は「ああ、わからない!」
オオ、ミステーク!  舞台の上も下も凍りついてしまいました。
あなたはオペラをクビに成ってしまいました。 両親も友達も見に来てくれていたのに。 
「嗚呼、最悪!」

なぜあの時台詞が出てこなかったのでしょうか? 
あなたは台詞を知っていました。それを完全に覚えていました。 なのにあの瞬間あなたは失敗してしまったのです。 何故だか解りますか?
それはあの時、霊があなたの中に流入していたからです。
霊(スピリット)が入ってきてしまえば、あなたはもう(自分一人のためには)考えられないのです。
こうして、あなたは聖なる愚者のお芝居の中で聖なる愚者に成ってしまったのです。
なぜ、それでいけないのでしょう? なぜ、皆は聖なる愚者に成ったあなたを祝福してくれなかったのでしょう。
それは皆がお芝居をしていたからです。 そこに無遠慮にもリアリティが突入して来ました。
リアリティはすべての噓を突き崩し、真理をあなたに与えたのです。 「あなたには何もわかってはいない」という真理を。

あなたの役割は、上手く考えることではなく、台詞を覚えることでもありません。
あなたは(自分でも気付いていなかったけれど)真理を訊ね聞いたのです。 そして大いに失敗したのです。 自分の無知を大いに晒したのです。
何故って、もうお芝居を続ける必要はないのだから。 そして神は圧倒的なのだから。
こうしてお芝居を続けることが重要ではないとわかるのです。
こうして何回失敗しても構わないことがわかるのです。
「なんだ! 俺は人前で(しかも剣道の先生のお話を聞いている真っ最中に)小便を漏らしても死なないんだ」とわかるのです。

何故決められた台詞を言うこと(自分の概念を使うこと)が良くないのでしょうか?
それは神が毎瞬あなたの前に新しく現れているからです。
あなたの役目はあらかじめ決められた思考を披露したり、あらかじめ決められた台詞を言うことではなく、神のその場の新しさを表現することだからです。




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