Mar 15, 2011

あなたは#23

52. The miracle makes NO distinction among degrees of misperception.

52. 奇跡にとっては誤認識の程度の違いは存在していません。

あなたの問題がどのようなものであっても、それは問題ではないのです。
奇跡にはそれを修復することが出来ます(喜び、そして強調と共に言い放つ)!!


20061013

奇跡は「奇跡を持とう、奇跡を表現しよう」というあなたの(もしかしたら日常の意識から深く隠されている)意志から流れ出てきます。


It is a device for perception-correction, effective quite apart from either the degree or the direction of the error.

これは、知覚を修正する道具で、間違いの程度や方向に左右されること無くその効果を発揮するものなのです。

あなたの意欲が知覚の修正を可能にするのです。
そして(今まで私が言って来たように)「その応用とそれが与えられる様子は無差別で普遍的」なのです。

私は本当に「割れ爪が治ることは癌が治ること同じように奇跡を示している」と言ったのです。


This is its TRUE indiscriminateness. Christ-controlled miracles are selective ONLY in the sense that they are directed towards those who can use them – who are willing to have healing for THEMSELVES.

これが奇跡の本当の無差別性(こだわりの無さ)なのです。キリストにコントロールされている奇跡は、『「奇跡を自分達のために使える者達(奇跡を受け入れられる者達)」に向けて与えられている』という意味においてだけ選択的なのです。

奇跡を得たことのある人は皆「奇跡を完成させるためには、その奇跡を分かち合う必要がある」と知っています。

あなたの癒しが、あなたの兄弟に「彼自身も痛みや罪や恐れから解放されることが出来る」と告げるのです。

あなたの姉妹は、あなたの解放と共に彼女自身の解放を感じるのです。


Since this makes it inevitable that they will extend them to others, a strong chain of Atonement is welded.

このことにより、彼等が奇跡を他の人達にも差し伸べる(拡張する)ことが必至/確実なので、アトーンメント(和解)の強靭な輪が作られるのです。

あなたの愛情とあなたの愛らしさが、それぞれの人に対して、『あなたのような「罪人」でも自由になることが出来るなら、それは彼等にとっても真実にちがいない』と思い起こさせるのです。


However, Christ-control takes no account at all of the magnitude of the miracle itself, because the concept of size exists in a plane that is itself unreal.

しかしキリストのコントロールは奇跡自体の巨大さに考慮は与えません。何故なら「サイズ/大きさ」の概念は「リアルではない領域」の中にだけ存在しているのだから。

リアリティ(天国)の中では、「良きもの」だけが存在しているのです。

そしてあなたは真に「良きもの」なので、(たとえ歴史がどのようなことを言っていたとしても)「間違いが起こっているように見えている所」に「良きこと/良き状態」が現され、癒しが宣言されるのです。

すると癌も割れ爪も去って行き、胃潰瘍も心臓病も、それらの病/罪を「創造」した憎しみや怖れも去って行くのです。

それらは、「正悪(善良対邪悪の対立)」を信じている(つまり「神」の正反対が存在できると考えている)マインドの中にだけ存在しているように見えるのです。 

このような非情な法に基づいて統治されている場所に住みたいと思う人がいるでしょうか?

「神」から分離している力の存在を信じて、そのような場所に住み続けたいと考えるのは狂気の沙汰です。
あなたがゲストとして病を招待している時、あなたの居る場所には「神」の力が届いていないとあなたは主張しているのだから。 このことに気付きなさい。

これを少しでも正気と呼ぶ事が可能でしょうか?


Since the miracle aims at RESTORING the awareness of reality it would hardly be useful if it were bound by the laws which govern the error it aims to correct.

奇跡は「リアリティに対する意識(気付き)を復元すること」を目的にしているので、「(奇跡が修正しようとしている)間違いを統治している法則」に縛られていては(奇跡が)役目を果たすことは出来ません。

奇跡という意識は、時間と空間というこれらの「間違った法」(物理的法則)を無視するのです。


Only man makes this kind of mistake.

人だけがこのような間違いを犯すのです。

「物理的な考え(ものの見方)」のことをリアリティだと誤解して、スピリット(霊)を空の彼方にあるもの、「死後」(「死」これもまた複雑に組み合わされた間違いです)にしか見つけることができないものと考えるような「間違い」を犯すのは人だけです。


It is an example of the foolish consistency which his own false beliefs have engendered.

これが、人自身の間違った信念が生んでいる幼稚な首尾一貫性の一例です。

(あなたが作った馬鹿げた法則に縛られている)「物質」というような一時的なものが本当に存在できるなら、その結果は確かに「死」になるでしょう。

そしてあなたはこのようなことをしながら、あなたを「愛」している父母に向かって拳を振り回し「見てみろ! 私も創造者だ!!」と叫んでいるのです。


20061014

The power and strength – and obnoxious attitude – of man’s creative will must be understood before the real meaning of denial can be appreciated and relinquished.

「人が行なった否定」の真の意味を理解しそれを放棄出来るようになるには、まず「人の創造的意志の力と強さ(と強情)」の意味を理解する必要があります。

人間的思考は、ただ単に「神」を否定しているだけなのではありません。


It is NOT mere negation.

それは(人の創造的意志は)単なる否定だけではありません。


それはただ単に反抗的な子供が両親に向かって叫んでいる以上のものなのです。


It is a positive miscreation.

これは積極的な誤創造(誤った創造)だったのです。

分離した神の子供達は「クーデター(乗っ取り)」を企てたのです。

『あなた達は「神」を抜きにして「何か重要なもの」を創造出来た、その行為があなた達自身に「神」と同等の力を与えている(つまりあなた達各人が、局部的で卑小な神に成っている)』という主張が言い立てられているのです。


While the miscreation is NECESSARILY believed in by its maker, it does not exist at all at the level of true creation.

誤創造は必然的にその創造者によって信じられたのですが、しかし真の創造のレベルにおいては、それは(この誤創造は)全く存在していません。

もちろん、(幾千年もの間苦しみが続いているように見えているにも関わらず)この誤創造は全くナンセンスで実体のないものなのです。

眠り込んでいる神の子供達の痛みに満ちた誇大妄想的な夢の中以外では、リアルなことは全く何も起こっていないのです。


53. The miracle compares what man has made with the higher level creation, accepting what is IN ACCORD as true and rejecting the DISCORD as false.

53. 奇跡は、「人が作ったもの」を「最上級の創造」と照らし合わせて、「真理と調和しているもの」を受け入れ、「真理と調和していないもの」を間違いとして放棄します。

「神の子が存在している」が真理です。
「体験されている不調和」が真理ではないものです。

奇跡が、神の子のマインドを彼等の不思議な夢から引っ張り出すのです。(少しだけの間にしろ)全てが調和に満ちているレベルに神の子のマインドを引き入れるのです。
すると不調和(争い)が消え去り、あなたは「私は癒やされた!」と叫ぶのです。

奇跡の要点は、(今まで信じられてきたように)人を癒やして、その人が夢の中でより安楽に生きられるようにすることではありません。

奇跡の目的は一つだけで、それは、夢の状態全体に対して疑問を差し挟むことです。 その疑問とは「ここでは何が行われているのか?」です。

しかし、あなたはその答えを怖れています。 この怖れを手放す必要があるのです。


ALL aspects of fear are untrue because they do not exist at the higher creative level, and therefore do not exist at all.

怖れの全要素/全側面は全く真実ではないのです。何故なら、それらは最上の創造レベルでは存在していないから、だからそれらは全く存在していないのです。

奇跡の瞬間に恐れが中断され、そして、もしその時好奇心が発揮されたなら、好奇心が「まだ知られていないこと」に対する怖れに打ち勝ったなら、その時あなたは(私があなたから求めた)「少しの意志」を持っているのです。


To whatever extent a man You – each one of You – is willing to submit his beliefs your beliefs to this test, to that extent are perceptions corrected.

自身の信念を(あなたの信念を)このテストに差し出す、その人の(あなたの、あなた達一人一人の)意志に応じて、その知覚が修正されるのです。

より正確に言えば「修正が許可されるのです」。 つまり「修正が行われること」をあなたが許すのです。


In sorting out the false from the true, the miracle proceeds along the following lines; If perfect love casts out fear, And if fear exists, Then there is NOT perfect love. But Only perfect love REALLY exists.
If there IS fear, It creates a state which does not exist.

真実と過ちを選り分ける時、奇跡は下記のように進みます。
もしパーフェクトな愛が怖れを追放するものであるのに、怖れが存在していたなら、その場合パーフェクトな愛は存在しないことになります。 しかし、パーフェクトな愛だけがリアルに存在しているのです。(だから)もし怖れがあるとしたなら、それは(その怖れは)存在していない状態を作っているのです。

「パーフェクトな愛」は怖れを溶かしてしまうので、怖れは実際には存在していません(怖れは単に「全てがオーケーであることを忘れている状態」に過ぎません)。 だから、あなたがそれ(「パーフェクトな愛」)に手を伸ばした時にはいつでも「パーフェクトな愛」があなたに与えられているのです。

(「パーフェクトな愛」があなたと「ひとつ」であり、それがあなたを「愛」していることを知っている)あなたは「怖れの(リアルでない)様子」に対して毅然と立って「怖れ」の示唆(「そこで恐ろしいことが行なわれているという」言い立て)を全て打ち破ることが出来るのです。


Believe this, and you WILL be free. Only God can establish this solution and THIS faith IS His gift.

これを信じたなら、あなたは自由になるのです。「神」だけが、この解決を設立出来るのです。この信心が彼/神のギフトなのです。

リアルに存在しているのは「愛」だけです。 
そして、それはパーフェクトなのです。
そして、それは「あなた」と「私」と「神」なのです。
これが真の三位一体(合一/ひとつで在ること)なのです。

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